闘病記2=入院編=

Я сошла с ума 私、狂っちゃった!
タトゥのヒット曲にЯ сошла с ума(私、狂っちゃった)とゆー曲があります。
♪私、狂っちゃった〜マジで。状況はHELP! 状況はSOS!♪
このよーな↑歌詞なのですが、病院にいる時のボクの気持ちとピッタリです♪〜( ̄。 ̄)
とにかく、聴力はまったく回復することがなかったし、聞こえる方の左耳も不調でねえ。
きれいな女医さんは、ボクの目をじっとみつめて「もしかしたら回復しないかもしれません」と言った
病院は4つ通いました。
闘病記1=発症編=の続きとなりますが、2005年1月19日夜電車の中で発症し、翌日(1月20日)起きたら、何事もなかったように回復してたんです。しかし、多少耳鳴りやふらつきもあったし、前夜は強烈な症状だったので念のため職場付近のA耳鼻科に行きました。でも着いた頃には調子がよくなってたんです。かなりいろいろ検査してもらったけど、聴力も含め何も問題なしでした・・・。先生も困って「何も問題ないですよ。だから原因もわからないですねえ。念のためにラベルミンだけ出しておきますから様子を見てみましょう」と言ってましたわ。これが最初の病院
ところがそれから30分も経たないうちに、戻った職場で・・・再びアノすべての症状が襲ってきて苦しみだしました。さっさと帰ればいいものを、この頃やたら仕事がたまっていたので夜8時頃まで残業してフラフラになりながら帰宅しました。
1月21日は起きたときから耳鳴りがしていました。うるさくはなかったですが終日耳鳴りがしてました。起きてトイレに行こうとするとフラフラして壁を伝わないと歩けない状態。がんばっても3メートル先のトイレまで歩くのがやっとだったので、職場に電話して休みました。熱はなくて35.8度くらい。朝から吐き気がするので夕方まで何も食べれず、少し水を飲んだだけ。夕方4時頃チョコレートを少し食べたけどしばらくしたら吐いてしまいました。
ちょうどその頃、同業者の美少女からメールがきて「めまいするんでしょ。早く病院に行った方がいいよ!」と書いてあり、“自分では歩けないけど、ハニー(妻)に連れて行ってもらうか!”と思いました。これは夫婦仲が悪いわけじゃなくて、ハニーが楽しみにしてたスキーツアーの出発数時間前だったんで躊躇してたんですよ。救急車呼べば自分ひとりでも行けそうだし・・・とかね。発症時には“ぜったい死ぬ”とまで思って危機感を感じていたのに、1月20日にいったん回復したので“まあ、寝てれば治るさ”と甘く考えてしまったのも躊躇した理由です。
でも、あまりに重症なのでハニーに近所のB診療所に連れて行ってもらいました。非常に親切なスタッフの診療所でしたが、専属の耳鼻科医がおらず、大きな大学病院から週数回派遣されてくる先生しかいないのです。その日担当だった無愛想な男性の医者は、いろいろ検査した後「来週の火曜日が診察日なので来てください。検査結果お知らせします。今日はめまいのクスリだけ出しておきます」とのこと。この日1月21日は金曜日でしかも夜になってましたが、こーゆー対応はちょっとねー。かなり怒りを感じて帰宅しました。ハニーに支えられながら。
1月25日火曜日。土・日・月と寝たきりにしてたら歩けるようになったので、一人でB診療所に行くと同じ大学病院から来てる別の医師が、ボクの目をじっとみつめて「あなたの右耳はまったく聞こえてません。紹介状書きますから、スグに大きな病院に入院して治療を始めてください。聴力が回復するかどうかわかりません。もしかしたら回復しないかもしれません。急ぎます。明日にでも行ってください!」と穏やかな声でいいました。愕然としたものの、ボクはこの女性医師は若いけど信頼できるなと思いました。21日金曜日にもこの先生がいてくれたら、土曜日に大きな病院に押しかけて入院したのに・・・と思いましたね。これが2番目の病院1月26日に紹介されたC病院に行き、突難ということでその場で入院となりました。

いよいよ、C病院で治療がはじまりました。といっても点滴(血液循環改善剤、ビタミン剤、ステロイド剤、抹消閉塞性動脈治療剤など)だけ。C病院の耳鼻科では、神経節ブロック注射や高圧酸素療法はやってませんでした。とつなん日記の掲示板などでいろんな治療方法があるのは知ってましたが、やはり治療法として確立されてるのはステロイド点滴だろうと感じていたので“ダメだったら他のを考えよう”と思っていたので。点滴を受け始めたのは1月26日(水)。突難はとにかく早めに治療をはじめないといけないのですが、最初から耳鼻科に通ってたわりには遅いかもしれませんねえ。治療開始が遅くなるケースでよくあるのは、最初に内科や脳外科を受診したために耳鼻科に来るのが遅くなったというものらしいです。
9日間入院し2月2日(水)に退院しましたが、残念ながら聴力はまったく回復しませんでした。神経節ブロック注射や高圧酸素療法をどうするか悩みましたが、ステロイドがまったく効かなかったこと、発症時のめまいを伴う激しい症状から考えて、客観的に回復しない可能性が高いと思われること、やたらと高い入院費用・・・などを考えてあきらめました。この3番目のC病院で諦めがついて“右耳が聞こえないままでもしっかり生きて行こう”と決意しました。
ただ、西洋医学以外でハリだけは挑戦しようと思い、有名な一掌堂治療院には通いました。ハリでも右耳はビクともしませんでしたが、院長先生とスタッフの方々が我がことのように心配してくださったこと、心から励ましてくださったこと、病院での治療方法を詳しく説明してくださったこと、本当にとても親切にしてくださったこと・・・一生忘れません。“生きていくのつらいなあ”と暗く沈んでいた頃にどれほど心が落ち着き、癒されたかわかりません。最近行ってないのは・・・お金がないから。嫌になったわけではないので先生許してね♪〜( ̄。 ̄) 給料が普通に入ってくるようになったら、また予約しますんで。・・・こう書くと突難にはハリが効かないと誤解されてしまいそうですが、違います。そんなことはありません。一掌堂治療院さんの突難での実績はすごいですよー。ステロイドが効かなかった方、一度検討されてみてはいかがでしょうか。
働けないカラダになってたんです(〒_〒)ウウウ
さて、そうすると何故に4番目となる荏原病院に入院したのか?
これは・・・職場復帰できなかったことがもっとも大きな原因です。
心機一転、片耳が聞こえなくても、早く職場復帰してがんばっていこう、とキアイを入れたのに、半日も働けないくらいカラダがガタガタになってしまっていたのです・・・。
退院して、数日。職場には「当面は半日くらいしか働けないと思います」と告げて復帰しましたが、多少大げさに言わないと、いきなりこき使われてもたまらないと思ってのことでした。ところが、これが大げさではなくてねえ。半日どころか1時間30分も持たないが日もあったし、とにかく毎日通えないんです。
通勤電車の車内の騒音も耐え難いものですが、働きはじめるとたちまち耳鳴りが激しくなってきて、半日もすれば聞こえなくなった右耳の奥の方が痛くなってくるんです。半日働いて具合を悪くして2日休んで・・・ってな調子でまったく働けませんでした。極めつけは午後2時30分頃まで働いた日。帰り道、電車を降りて歩いてると違和感が。下を向いて顔を正面に戻すとフラっとめまいがするんです。こりゃヤバいと思ってスグ帰って眠りました。夕方5時前頃、目が覚めて起きようとしたら回転性のめまいが!上半身を45度くらい起こしたら、生まれてはじめての回転性のめまい!これが強烈で。グワングワンしちゃって体を少しでも起こしてられない、身動きできないんですよ!そのまま寝たきりにしてるしかなかったんです。さらに翌日。朝起きようとしたら今度は前後に揺れる激しいめまいが!またしても体を起こすことができず寝たきりに。・・・まあ、2週間くらいそうやって過ごしましたが職場の上司も頭を抱えてしまってかわいそうでした。ボクも、右耳の聴力を失っただけ、聞こえないのが不便なだけだと思ってたので、働けないのがわかって超落ち込みました((+_+))
“このまま一生働けないのなら生きていることに意味があるのか?”とノイローゼに・・・。
Я сошла с ума(私、狂っちゃった)のリフレインが、頭の中でグルグルと・・・。
それから、しばらくして退院時に予約してあったC病院の耳鼻科外来に行ってきました。すると、若い医師が言うんです。「あのー、高圧酸素療法とか受けてみます?紹介できるところはないけどインターネットで検索したら出てくると思うんですよ。いいところがあったら紹介状書きますんで。」
まったくひどい話で。入院中とか退院時に勧めるならわからんでもないですが、突難で発症してから1ヶ月以上経って、そーゆーことを言うんです。頭にきましたが、実際働けない状態で、家でゴロゴロして過ごすか入院して治療を受けるかしかないわけですから、一掌堂治療院の先生に荏原病院か東京医科歯科大学病院が設備が揃っていると聞いていたので、入院できる荏原病院宛てに紹介状を書いてもらうことにしました。(東京医科歯科大学病院に確認したら入院はできないと言われたので断念しました。回転性のめまいで恐怖を感じていた頃だから入院しかないと思ったのでした。それに問い合わせたとき、荏原病院の方は親切丁寧でしたが、東京医科歯科大学病院は非常に冷たかったです。)
そして、2月23日に都立荏原病院に入院することになりました。
なかなか改善しないけど・・・生きるチカラがみなぎってきた
荏原病院ではステロイド点滴はナシで、高圧酸素療法とブロック注射のみお願いしました。しかし高圧酸素はわずか2回しか受けていません。要するに入院中、ブロック注射のみの治療だったんです。高圧酸素タンクはどの病院にでもある施設じゃないので、実にもったいない話なのですが、この頃聞こえる方の左耳の調子が最高に悪かったんです。2回目に高圧酸素のタンクに入ったとき左だけ“耳抜き”できなかったんです。聞こえない右耳はちゃんと耳抜きできるのに左はまったくいうこときかない…左まで聞こえなくなったらヤバい、と怖くなったので2回でやめてしまいました。「医長先生は鼓膜を切開すれば大丈夫ですよ。切開といってもちょっと穴を開けるだけですから」と言ってくださったのですが、高圧酸素療法で事故がおきてるとかそーゆー情報もネットで知っていたし、左耳で耳抜きできない理由がわからなくてうろたえていたんですよー。ですのでブロック注射だけやりました。今でも(7月18日現在)左耳の調子が悪いです。まだうまく耳抜きできないし、耳栓のし過ぎが原因と思われるのですが、首を振るとコロコロと音がします。耳の中に何か入っているかとゆーわけじゃないのにコロコロと!?これは耳付近の“骨”が折れているのが原因らしいです。左耳の聴力に影響はありませんがヒジョーに不快です。まだ数ヶ月は治らないらしいッス。荏原病院では聴力が回復したわけではありませんが、めまいがほぼなくなりました。退院後、一回だけ軽いめまいがありましたがそれだけです。それから、完全にスケールアウトだと思われていたのですが高音部にほんの少し聞こえるところがあることがわかりました。その部分がどの帯域でどの程度の聴力なのかあえて先生には聞いてません。大勢は変わらないのに、妙に期待すべきでないと思うので。最近は「完全に失聴」と言わずに「ほぼ完全に失聴」と言うことにしてます。・・・
と、まあ、あまり症状が好転したってことはないのですが、荏原病院の入院で元気を回復したとゆーか生きる力がみなぎってきました!一番大きいのはいろんな患者さんの話が聞けたことですね。突難の患者さんは女性ばかりでしたが同じ苦しみを背負っているのですから励ましあうことができてよかったです。ある夜、病棟の廊下で立ったままオバサマ2人と長時間大声で話し会いました。生い立ちや病気のこと、家族のことやらをたくさん話しました。気分が悪くなるくらい長い時間熱く語りましたね♪〜( ̄。 ̄) また、突難以外の患者さん・ご家族の話も励みになりました。明るく元気な半身麻痺のオジサンが「リストラされちゃって目の前真っ暗だ。でもよ、気合い入れないとな。大学生の娘が励ましてくれるんだ」と語ってたり、片眼失明寸前のお姉さんが泣きながら「両眼失明の可能性もあるんだって。でも、負けないから!」と語ってたり。直接話したわけじゃないんですけど、暇で院内を旅してたり、外泊時にバス停にいると、そんなシリアスな話が聞こえてくるんですよ。片耳が聞こえないからって「生きてくのつらいなー」とグチでも言えない瞬間が何度もありました。
極めつけなんですが。実は荏原の耳鼻科病棟は小児科病棟と同じフロアでつながっているのです。テレビの特番で涙を誘うことの多い、アノ小児科病棟と!
看護師さんは「うるさいよー」と言ってたけど、そんなことなかったです。静かなことが多くて心配しちゃったくらい。いい子ばかりだったのか、症状が重い子が多かったのか理由はわからないんですけど・・・。一度、夜の面会の時間が終わるとき叫んでる子がいました「ママー!いい子にしてるから帰らないで!お願い帰らないで!」って叫んでるんです。ずっと・・・。「アンタいい子にしてるのにママは帰っちゃうんだね。アンタつらいよなあ。いい子にしてるんだからママはそばにいなくちゃダメだよな」とかブツブツつぶやきながら居たたまれない気持ちになりました。なかなか眠れませんでした。
“オレは37歳まで重い病気にかかったことないよな。重いっていっても右耳が聞こえないくらいだよな。でもすぐそばに重い癌の子いるよな。足を切断しなくちゃいけない子もいるって聞いたよな。難病で命に関わる病気の小さな子もいるよな・・・オレさー、つらい、苦しいって嘆いてる場合じゃないよな!”
ボクは結構症状重かったのに、そう思わざるを得なかったです。小児病棟と同じフロアだったことはホントに貴重な経験でした。